1946年 イサム・ノグチ、インドのアーメダバードからニューヨークに西洋音楽を学びにやってきていたギータ・サラバイをジョン・ケージに紹介する。
https://scrapbox.io/files/6309f985d4d847001d4d0e5b.png
日付:1946年
小咄:
インド西部にアーメダバード(アフマダーバード)という街がある。長いことグジャラート州の州都だった大都市で、イギリスの統治下で盛んになった繊維工業と、その統治からの解放を目指したマハトマ・ガンディーが活動拠点としたアシュラム(道場)で知られる。1946年、この街に住むギータ・サラバイという当時24歳の音楽家が、インドの伝統音楽に西洋音楽が与えている影響を憂いたあげく、そのような影響から伝統を守るためには西洋音楽がそもそもなにかをきちんと知ることが必要だという考えにいたる。幸いにして彼女は、繊維工業で莫大な財を成し、ガンディーの独立運動のパトロンでもあった地元有数の名族サラバイ家の出身だったので、思い立ったが吉日とばかりに、西洋音楽の本場たるニューヨークに旅立つ。半年に及んだ滞在中にギータは数々の西洋音楽家と知り合うが、名門ジュリアード音楽院に入学しようという計画を聞いて、「頭がおかしいのか?いったいなぜジュリアードなんかに入りたいんだ?」といちゃもんをつけ、こちらのほうがマシだとギータを自分の知り合いの作曲家に引き合わせたのは、インド独立運動を進めるニューヨークのインド人グループとも関わりがあったイサム・ノグチである。彼が紹介したのはギータより十歳年上のジョン・ケージという風変わりな作曲家で、二人はケージが現代音楽と対位法を教える代わりにギータがインド音楽を教えるという交換条件を交わしてほぼ毎日会うようになる。この交流を通じて学んだインドの音楽思想がケージの作品や言説に与えた影響についてはよく語られる。だがギータの方も1947年2月にノグチに宛てた手紙で次のように感謝を述べている:「イサム、音楽学者ではなく作曲家に学んだ方がいいというあなたの助言は正しいものでした。ジョンはとても素晴らしいことをしてくれました。音楽における私自身のルーツを見つけるのを手伝ってくれたのです」。
場所:
関係者: